ロラン夫人

ロラン夫人-フランス革命 ジロンド派の女王

ロラン夫人は、フランス革命期の共和主義の党派「ジロンド派」の指導者の一人。ジロンド派の議員として中心的だったのはブリッソだったが、セーヌ川ポン・ヌフ橋近くの彼女のサロンにはジロンド派の議員が集まり、政治談義をしていたことや、夫であるロラン内務大臣の仕事を実質彼女が担っていたことから「ジロンド派の女王」と呼ばれた。

ロラン夫人
ロラン夫人
出典:Wikimedia Commons

生い立ち

ロラン夫人の本名は、マリー=ジャンヌ・フィリポン・ロラン。1754年にパリ・シテ島で彫刻家の父親の元に生まれた。ブルジョアの家庭だったため、幼少期から英才教育を受け、ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなどの啓蒙思想に強く影響を受けた。とくにルソーの作品を愛読していたという。ブルジョア層の裕福な家庭で育ったとはいえ、身分は平民であり、貴族階級に強い反発心を持っており、共和主義者となった。

革命家としての経歴

1780年、当時官僚で20歳年上だったロランと結婚。夫のロランは、夫人の影響を受けて次第に政治に興味を示すようになった。結婚後に夫婦でリヨンに移住したが、夫の仕事の都合で1790年に再びパリに戻ってくる。ロラン夫人は、結婚後は主婦として夫を支えるために家庭に入っていたが、1789年のバスチーユ襲撃に影響を受けて政治にのめり込んでいった。彼女が書いた回想録でも「革命が勃発し、私達を燃え上がらせた」と語っている。

革命勃発後、ロラン夫人のサロンには、ブリッソやロベスピエールなど、ジャコバン・クラブ、すなわち左派の政治家や議員が集まるようになった。

1792年3月に夫のロランが内務大臣に任命されると、内部大臣官邸の大臣室に自分のデスクを置き、内部大臣名義で出す文書を夫人が書き、実質大臣としての職務をこなすようになった。ロランは妻の言いなりだったため、影の権力者となったのだ。また、巨額の機密費を利用してマスコミの報道を操作するなど、巧みに政治手腕を奮った。

国王への手紙

議会が採択した法案を国王がなかなか採択せず、国王に対する民衆の反感が高まっていた1792年6月には、ロラン夫人が国王に何度も手紙を書いている。

「2つの重要な法令が制定されましたが、2つとも公共の安寧と国家の安泰に本質的に関わるものです。この2つの法令に対する認可が遅れていることが不信を生み出しているのです。もしこうした自体が長引くようなことがあれば、それは不満を呼び起こし、そして、現在のような興奮した状況においては、どんな結末にたどり着くやもわかりません。」

「今であればまだ避けることができる不幸を賢明にも予防しないならば、革命は血の対価をあがなって遂行され、それによって革命派さらに確固としたものになることになりましょう」

「国家の安泰と陛下の幸福は固く結びついているのです」

このように、ロラン夫人はルイ16世に対して最後通告とも言えるような内容の手紙を書いたが、ルイ16世がこの手紙を受け入れることはなく、手紙を受け取った3日後にロラン内務大臣を罷免するという形で彼女に回答した。

6月20日、ロラン夫人の手紙を無視したルイ16世は、チュイルリー宮殿に乱入してきた民衆に拘束され、その後、王権停止という結末を迎えた。ルイ16世がロラン夫人の手紙に耳を貸し、ジロンド派と協力していれば、王権停止は免れなかったにしても処刑されるという最悪の自体は免れた可能性はあった。

ジロンド派の衰退と処刑

1792年秋、ジロンド派が王権停止をもって革命を終結に向かわせようとしていたのに対して、急進左派のジャコバン派(山岳派)は革命を存続させることを主張。両者は、同じジャコバン・クラブの出身でありながら対立することになった。

1793年、国王ルイ16世が外国と内通していることを示す文書がチュイルリー宮殿から発見され、国王は処刑される。この後、ジャコバン派のダントンが仲介となって、ジロンド派とジャコバン派が和解の道を模索する動きがあったが、ロラン夫人は粗野なダントンを以前から嫌っており、両者は決裂した。

国王の処刑によって、フランスはヨーロッパ各国から経済的な制裁を受けたり、軍事的にも包囲されるなど厳しい状況を強いられることになった。もともと開戦を主張したのがジロンド派だったこともあり、ジロンド派は議会での権力をジャコバン派に奪われることになった。1793年6月、ジャコバン派の中心人物ロベスピエールによってロラン夫人を始めとしたジロンド派の中心人物は逮捕され、同年11月に処刑された。

「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という言葉は、ロラン夫人が回想録に残した名言として知られる。