革命裁判所(フランス革命)
フランス革命における革命裁判所は、1793年3月10日にパリのシテ島に設置された。この裁判所は、国民公会が反革命派の犯罪人を裁くために作ったもので、1795年5月31日まで続いた。
裁判所設置の目的
フランス革命戦争(対ヨーロッパ戦争)が開戦すると、諸外国の力を借りて革命政府を打倒しようと、貴族や貴族士官の裏切りや内通、陰謀が相次いで発生した。革命政府を司る国民公会では、これらの陰謀から民衆を守るために、迅速に反革命派の政治犯を裁くことができる特別犯罪裁判所の設置が必要であるという声が上がった。
革命裁判所の設置については、穏健派のジロンド派の議員たちは「独裁に繋がりかねない」と反対したが、急進派のジャコバン派の議員たちは積極的で、特にジャコバン派の議員ダントンが押し切る形で裁判所の設置が決定した。
革命裁判所では、「あらゆる革命的企て、自由、平等、統一、共和国の不可分性、国家の内的および外的安全を脅かすあらゆる行為、王政を復活させようとするあらゆる陰謀に関わる事件」を扱った。
どんな裁判だったか?
検察官には、告発された被疑者を逮捕して裁判にかける権利が与えられた。被告に対する裁判は1回限りで、控訴や上告は認められなかったため、この裁判所での判決が最終判決となった。
革命裁判所が設置された当初は、判事や検事をブルジョワ出身の人物が多く占めていたため、判決内容は穏健なもので釈放される者が多くいた。しかし、1793年9月頃から急進派であるジャコバン派のエベールが中心になり、判事や検事の人員が刷新され恐怖政治が始まった。同年9月17日に「疑わしい者たちに関する法令(容疑者逮捕令)」が制定されたことにより、王政や専制政治の信奉者と見なされた者や、亡命貴族の親族など、容疑者の定義が広義になったことで、逮捕者が大幅に増加した。
革命裁判所は、共和制やフランス革命に陰謀を企む人物を裁くために設置されたものだったが、恐怖政治が始まった頃からは、ジャコバン派の政敵と見なす人物を処刑したり、民衆の不満の矛先が革命政府に向くことを避けるために利用されるようになっていった。
処刑された人数
1793年8月までの処刑者数は月間10人前後だった。革命裁判所で裁かれた被告が224人でそのうち死刑者数が52人だったので、全体の75%の被告は死刑から免れることができていた。
しかし、革命裁判所の人員の刷新がされて以降、死刑者数が急増した。10月~12月の期間には、被告が395人、死刑者数が177人と、逮捕者数自体も増加したし死刑者数の割合も約50%程度まで上昇したのだ。
革命裁判所の勢いがさらに増すのは、「草月法」が制定れた1794年6月以降である。この法令が制定されたことによって、通常の裁判ではあるのが一般的な手続きである、証拠の調査や証人喚問、弁護士による弁論などが廃止されたため、被告は、尋問のあとに即判決を受けることになり、ほとんどの被告が釈放されることはなかったのだ。
フランス革命の革命裁判所で死刑判決によって処刑された人数は合計で2,800人いるが、その半数が「草月法」が制定された1794年6月以降の1ヶ月半に集中した。もっとも処刑人数が多かった7月は1ヶ月で796人が死刑となったというから、1日あたり26人もの人がギロチンで処刑された計算になる。
革命裁判所の犠牲になった人物たち
革命裁判所で処刑された人物は、政治犯や貴族士官だけではなく、文化人や哲学者なども多かった。その中には、1789年6月の「球戯場の誓い」を主導したバイイや、現代の教科書でも「質量保存の法則」で有名な天文学者のラヴォアジエもいた。
バイイは、バスチーユ陥落のあとにパリ市長に選出され、フランス革命初頭には中心にいた人物であったが、シャン・ド・マルス銃撃事件の責任をとる形でパリ市長を辞任し、この事件が原因で1793年11月に死刑判決を受けた。
ラヴォアジエは、フランス革命が勃発する前に徴税請負人をしていたことから、民衆の敵と見なされ、1794年5月に死刑判決を受けた。
その他にも、マリーアントワネットや、ルイ15世の最後の公式寵姫だったデュ・バリー夫人、王妹エリザベトも革命裁判所の判決によってギロチンで処刑された。