9月虐殺とは?事件の原因と流れ
9月虐殺は、1792年9月2日から始まった事件で、パリの民衆が監獄を襲って、反革命派の人々を大量虐殺した事件のことを言う。
民衆が行動を起こしたきっかけ
1792年8月11日、立法議会はコミューンの圧力を受けて、反革命派の容疑者を逮捕することへの許可をだした。この後、立法議会は反革命派の容疑者を裁くための「特別裁判所」を設置。この影響を受けて、パリ市内の監獄は反革命の容疑をかけられた人々でいっぱいになった。
一方、1792年8月23日、プロシア軍はロンウェイを陥落、30日にはヴェルダンを包囲し降伏させた。これを受け、パリ侵攻を防ぐべく義勇兵が募られたが、民衆の間では「義勇兵が出兵したら、監獄にいる反革命派が義勇兵の家族を虐殺するらしい」という噂が流れた。王党派、つまり反革命派は、外国の軍隊と連携して革命を潰そうとしているとされていたため、民衆の間ではこの噂が一気に広まり、不穏な空気が流れた。
そんな折、民衆派の弁護士ダントンは、議会で次のような演説を行った。
「パリで直ちに家宅捜索にとりかかり、3万人の裏切り者と隠されている8万の小銃を見つけ出そう!」
「すべては興奮し、動揺し、すべてはつかみかからんばかりだ。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、一層の大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは救われるであろう!」
この演説を受けて、民衆は9月2日の朝から反革命派の人々を虐殺するという行動にでた。外国から攻められ、祖国フランスが危機にあるのだから、まずは革命を邪魔する反革命派、つまり、国内の敵を征伐しよう、というわけであった。
事件当日
9月2日の朝から反革命狩りが行われた。数日前からいわゆる殺し屋がコミューンによって集められ、彼らは、サン・キュロットのトレードマークである赤い帽子に三色記章をつけ、反革命狩りを遂行した。午後になると民衆たちが監獄を襲撃し始めた。民衆は、反革命の容疑者達を引きずり出して虐殺していった。
アベイの監獄には500人の反革命派の容疑者が収容されていた。その大半が聖職者であったが、民衆は23人の聖職者を殺害。次にカルムの監獄に行き、150人の聖職者の多くを殺害した。
虐殺は数時間続いた。王妃マリー・アントワネットのかつての親友であったランバル夫人も反革命派として監獄に収容されていたため、民衆によって殺害された。人々は、ランバル夫人の衣装を剥ぎ取り、体をバラバラに切断。さらに首を槍に刺し、王妃に見せつけるためにわざわざタンプル塔まで向かった。「ランバル夫人!オーストリア女!」と叫びながら王妃にランバル夫人の首を見せつけたという。
殺害された人数は数日間で約1万4000人とも1万6000人とも言われており、聖職者がそのうち230人いた。
一般の民衆が数日間で1万人以上の人々を虐殺したことは異常なことである。しかし、当時の民衆にとってみれば、これまでの階級社会や封建制度で自分たちを虐げてきた人々や、自由と平等を求める革命を邪魔する人々を一掃することは、革命を成就させる上で必要なことであったのだ。