ピルニッツ宣言とは
ピルニッツ宣言とは、1971年8月27日にザクセンのピルニッツ城でオーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が共同で宣言したもの。
この会談の目的は、当時プロイセン、オーストリア、ロシアの間で問題になっていたポーランド分割について協議するものであったが、フランス国王ルイ16世の弟・アルトワ伯爵の強い働きかけによって、フランスの革命議会およびフランス国内の革命的な情勢に対して威嚇する内容の共同宣言もすることになった。
フランス革命がヨーロッパに与えた影響
1971年6月に起こったヴァレンヌ逃亡事件は、ヨーロッパの列強各国に衝撃を与えた。国王ルイ16世が逃亡・逮捕されたことを受け、王妃マリー・アントワネットの兄であるオーストリア皇帝レオポルト2世は、ヨーロッパ各国にフランス王家への支援を呼びかけた。これに応じたのがプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世とスウェーデン王グスタフ3世であった。
イギリスは、アメリカ独立戦争をフランスが支援していたこともあり、フランスとは敵対関係にあった。よって、フランス国内の混乱はむしろ好都合であり、レオポルト2世の呼びかけには賛同しなかった。しかし、産業革命が始まっていたにも関わらず、イギリス国内では、実業家や庶民の政治参加は認められておらず、一部の知識人はフランス革命を支持。ロンドンやマンチェスターでは、議会改革を求める政治結社が作られるようになった。
ところが、1791年11月にエドモンド・バークが『フランス革命への考察』という書籍を出版。バークは、伝統と階級制度を重んじるべきだとしてフランス革命を批判した。これがイギリス国内で沸き起こり始めた革命思想を抑えることになった。
ドイツは、かつてのフランスと同様に国内に侯国が複数存在し、侯国ごとに封建制度によって領主が農民を支配する形式をとっていた。そのため、フランス革命は知識人や学生に支持を受けた。また、ハンブルクではブルジョアジーが1790年7月14日に三色記章をつけて「自由の到来」を歌って、フランス革命の革命記念日を祝ったと言われている。
実際にフランス革命を受けて、ヨーロッパ各国ですぐに同じような革命が起きることはなかったが、それまで階級社会・封建制度が当然であった世の中において、自由と平等を求める思想や活動が発生し始めたという意味では、フランス革命はヨーロッパに少なからず影響を及ぼしたといえるのではないか。
王妃の兄・レオポルト2世の奔走
フランス国王王妃・マリー・アントワネットの兄であり、オーストリア皇帝レオポルト2世は、ヨーロッパ各国に呼びかけ、一時はフランス国内の革命派に対して軍事的圧力をかけることも考えた。しかし、冷静になって考え直し、軍事的圧力をかけることは断念した。
ピルニッツ城でのプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世との会談の際に、アルトワ伯の要請に応じて宣言したピルニッツ宣言も形式的なものであった。しかし、宣言された「相互に協力し、必要な軍事力をもって迅速に行動する」という内容は、フランス国内の革命派にはそのままの意味で受け止められた。「国王の立場をこれ以上脅かすようであれば、ヨーロッパ各国が協力してフランスの革命派を軍事力で攻撃する準備ができている」ということである。
実際には、ヨーロッパ各国の同意など取っていなかったし、攻撃する気などなかったが、ピルニッツ宣言を受けて国外逃亡したフランスの貴族が熱狂し、ルイ16世の弟・プロヴァンス泊は「これ以上国王に危害を与えるならば、外国列強の軍隊がパリを攻める」と脅迫する声明を出したため、革命派の民衆は、宣言の内容を真に受けたというわけである。