シャン・ド・マルスの虐殺
シャン・ド・マルスの虐殺とは、1791年7月17日にパリのシャン・ド・マルス公園で、王政廃止と共和制を求める署名活動をしていた民衆を議会の命によって国民衛兵隊が弾圧した出来事のこと。
事件の背景
パルナーヴ、宮廷の相談役になる
1971年6月20日深夜、国王ルイ16世を始めとする国王一家はパリのチュイルリー宮殿を抜け出し国外逃亡を図ったが失敗。議会によってパリに連れ戻された。これをヴァレンヌ逃亡事件というが、この時国王一家を連れ戻しに行ったのが国会議員のペチヨンとパルナーヴであった。二人は国王一家と同じ馬車に乗ってパリに帰ってきたが、この際にルイ16世は上品な雰囲気のパルナーヴを気に入ったという。また、パルナーヴはマリー・アントワネットの魅力に魅せられ、この事件以降、密かに宮廷の相談役になった。それまでミラボーが担っていた役をパルナーヴが取って代わったということになる。
フイヤン派、ジャコバン・クラブからの離脱
ヴァレンヌ逃亡事件が民衆に与えた影響は多大なものだった。国王に見捨てられたと民衆は怒り、絶望したのだ。国王に対する処遇について議会の意見は大きく3つに割れた。王位を狙うオルレアン派はルイ16世の廃位を主張。ジャコバン派は国王を裁判にかけることを要求。パルナーヴを始めとした三頭派は憲法に基づいて国王の免責を主張した。
パルナーヴは、国王は逃亡したのではなく誘拐されたのだと主張した。さらに、これ以上革命が進めば、私有財産を失うことにもなりかねないとブルジョア層の不安を煽ったのだ。パルナーブは議会でこう演説した。
「私達は革命を終わらせようとしているのか、それとももう一度始めようとしているのか。これが今直面している本当の問題だ。諸君はすべての人々を法律の前に平等にし、人民の主権を確立した。だがこれが一歩進めば、不幸な罪悪行為となるだろう。つまり、もう一歩自由の線を踏み越えれば、王政の破壊となり、もう一歩平等の線を踏み越えれば、財産の破壊となるだろう。」
それまでジャコバン・クラブに属していたパルナーヴだが、この時期にジャコバン・クラブと決別し、立憲派のフイヤン・クラブを結成した。
しかし、議会の外にいる民衆の怒りは収まらなかった。急進左派の政治クラブ「コルドリエ・クラブ」は1791年7月17日、1790年に全国連盟祭が行われたシャン・ド・マルス公園で集会を開き、共和制を要求するための署名活動を開催したのだ。
事件当日
共和制を要求する署名活動が7月17日に開催されるという情報を事前に聞いていた、立憲派の国民衛兵隊隊長のラ・ファイエットと市長バイイは、集会を弾圧するために国民衛兵隊の出動を準備していた。集会当日、ほとんどの民衆派平和的に署名活動をしていただけだったが、民衆の一部がシャン・ド・マルスの祖国の祭壇の下に隠れていた男二人を王党派として縛り首にした。これが議会に報告され、即座に国民衛兵隊がシャン・ド・マルスに出動したのだ。
国民衛兵隊が空に向かって威嚇射撃をしたところ、民衆派パニック状態に陥った。逃げ惑う民衆や国民衛兵隊に石を投げつける者もいたが、いずれにしても民衆派非武装であった。この民衆に対して、国民衛兵隊は射撃を開始。死者数は50名とも十数名だったとも言われるが、いずれにしても、約5万人程度が集まっていた集会における弾圧としては、その犠牲者の人数は少なく、逮捕者約200名もすぐに釈放されたという。そのため、「虐殺」という表現は少々大げさだとしてフランスでは「発砲」と表現されることもある。
集まった署名
国民衛兵隊が弾圧に向かう前に、すでに約6,000人の署名が集まっていた。署名の中には、後に民衆派の中心的な指導者となるエベールやショーメット、アンリオを始めとしたジャコバン・クラブのメンバーや、国民衛兵隊の署名も含まれていた。また、フランス革命当時は一般的な民衆の識字率は低く、自分の名前が書けない人々もいたため、そういった人々は十字を書いたという。女性の署名もあった。
急進左派の弾圧
シャン・ド・マルスの虐殺と同時に、立憲派が中心となった議会によって、急進左派は弾圧されることになる。民衆派の新聞は発行を禁止され、ダントン、デムーランが属するコルドリエ・クラブは閉鎖された。ダントンは故郷に帰り、マラーはイギリスに逃亡。ジャコバン・クラブで襲われたロベスピエールは、指物師のデュプレ氏の家に匿われた。