ヴェルサイユ行進
ヴェルサイユ行進とは、1789年10月5日に約8,000人の女性たちが、小麦とパンを求めてパリからヴェルサイユに行進してきて、国王一家をパリまで連れ帰ることになった事件のこと。
なぜ、ヴェルサイユ行進が起こったか?
ヴェルサイユ行進が起こった背景には、主に3つのことが深く関係していた。
1つ目は、1789年7月14日のバスチーユ襲撃やその後にフランス各地で起こった農民蜂起「大恐怖」の影響で貴族がパリから脱出したことである。貴族のパリ脱出によって、それまで貴族に仕えていた召使いや出入りしていた商人が仕事を失い、不況に陥ったのだ。庶民の生活は困窮し、小麦の不足によって食料を確保することもままならなくなっていて、不満が溜まっていた。
2つ目は、国会が憲法制定に対していつまで立っても具体的な成果をあげられていなかったことだ。「封建制度の廃止」や「人権宣言(人間および市民の権利宣言)」は議会では採択されたものの、国王ルイ16世はこれを承認しなかったため、正式には成立していないに等しい状況であった。これに対して庶民は、貴族が国王を取り巻き、憲法制定を邪魔しているのだ、と思っており、取り巻きの貴族たちから国王を救出しなければならないという思いがあった。
3つ目は、庶民が食料の確保すらままならない中、ヴェルサイユの近衛兵が宮廷内で夜な夜な宴会をして、弱腰のルイ16世をなじって三色記章を足で踏みつけたというエピソードがパリまで伝わってきたことである。これに庶民は憤慨した。
パリでは、医者であり庶民派の革命家マラーが自身が発行する新聞『人民の友』で、小麦は豊作なはずなのに食料が足りないこの状況は貴族の陰謀であるという旨のことを書き、厳しい冬が来る前に、国王を取り巻きの貴族から引き離してパリに連れてこなければならない。と呼びかけた。
ヴェルサイユ行進がなぜ女性たちによって行われたのか?という問いに対する解は、3つ目の理由によるところが大きい。政治や憲法のことはよくわからなくても、パリの女性にとって食料が不足していることは一大事であった。家族の食料を確保する役目である女性たちは、小麦・パンが不足していることに憤慨していたのだ。これが貴族による陰謀であるという噂が出回ったため、国王に直訴しに行こう!ということになったのである。
ヴェルサイユ行進当日
パリからヴェルサイユへ
1789年10月5日、約8,000人の女性たちがパリ市庁舎前に集合し、パンを要求した。その後、ヴェルサイユに行くことを決議し、雨が降る中、約16キロの道のりを6時間かけて行進した。ヴェルサイユに到着した人々は、国会の議場前に座り込んだ。
男性二人を含む合計20人が国会の中に入ることを許された。彼女たちは近衛兵が三色記章を踏みつけたことや小麦とパンが不足していることを一生懸命に議員たちに訴えた。これを聞いたロベスピエールは行進してきた人々を支持。国会議長であるムーニエと代表者たちが国王に謁見できることになったのだ。
国王との謁見
パリから行進してきた一行の代表者たちが国王に謁見できたのは、夜8時になる頃であった。国王は女性たちに、小麦とパンをパリに送ることを約束。また、国会議長ムーニエには、「封建制度の廃止」や「人権宣言(人間および市民の権利宣言)」を承認することを約束した。
その夜のヴェルサイユは混乱することなく時間が過ぎていったが、翌早朝5時頃、庶民の一部が鉄柵を乗り越えてヴェルサイユ宮殿内に侵入。近衛兵と戦闘する事態に陥り、双方に死傷者がでる事態となった。これをラファイエット率いる国民衛兵対が沈めた。
国王をパリへ!
国王ルイ16世とマリー・アントワネットは無事であったが、マリー・アントワネットは身の危険を感じ、隠し扉から国王の部屋に避難するまでに至った。ルイ16世とマリー・アントワネットは、ラファイエットとともに、バルコニーに出ていき、宮殿前の中庭に集まる群衆の前に姿を現した。マリー・アントワネットが群衆に向けて一礼をすると、群衆は一瞬静まり返ったと言われている。
その後、「国王万歳!」「国王をパリへ!」と歓声が湧き上がり、その勢いに圧倒された国王一家は、パリに向かわざるをえなくなったのだ。その日、国王一家は馬車に乗り、パリのチュイルリー宮殿に住居を移すことになった。行進してきた女性たちは、国王を取り返したとばかりに馬車を囲んで一緒にパリに帰っていった。