バスチーユ襲撃
バスチーユ襲撃とは
フランス革命の幕開けと言われる「バスチーユ襲撃」は、1789年7月14日に起こった。パリの人々が牢獄として使われていたバスチーユを攻撃し、陥落させ、収容されていた囚人を解放。バスチーユ牢獄を管理していたローネー司令官を殺害した出来事である。
バスチーユ牢獄に収容されいてた囚人は当時7人。有価証券偽造犯、精神異常者、放蕩息子のみで、国王や国家にとって危険分子となるような政治犯や共和主義者は一人もおらず、この出来事は実質的には政治的な意味は持たないものであった。
しかし、かつてのバスチーユは、国王に背いた者や政治犯が投獄されていた牢獄であったため、国民にとっては国王の権力の象徴であり、これを陥落させたことには大きな意味をもったのだ。
バスチーユ襲撃は何故起こったのか?
パリ市民がバスチーユを攻撃するに至った直接的な理由は、進歩派で国民に人気が高かった財務総監ネッケルが国王に罷免されたというニュースがパリに舞い込んできて、市民がパニック状態になったためであった。
ネッケルの後任は、マリー・アントワネットと親しかったブルトゥイユ男爵だったため、まず、王室財政に関りが深かった金融業者の間で、ブルトゥイユ男爵が王室財政の破産を宣言して負債を帳消しにするのではないかという噂が飛び交ったのだ。これによって、手形の価値は暴落。金融業者たちは取引所を閉鎖して現金をばらまき抗議の意を表明した。
また、三部会がヴェルサイユで開催され、国会(憲法制定国民議会)が誕生した直後というタイミングでのネッケル罷免のニュースに、パリ市民の間では「国王が国会をも解散して、パリを軍隊で制圧するのではないか」という噂が広まった。
ネッケル罷免のニュースが伝わった後のパリ市内では、税取立所が焼き討ちにあうなど、騒乱が多数発生。革命の機運が徐々に醸成されていった。
当時、パリ市民が集った盛り場であったパレロワイヤルのカフェでは、弁護士でありジャーナリストでもあったカミーユ・デムーランが、「市民諸君!」と集まっている人々に呼び掛けた。軍隊が我々を殺しにやってくる、という趣旨のことを叫び、「武器を取ろう!」と群衆を扇動した。
バスチーユ陥落までの経緯
バスチーユ陥落までの流れは以下の通り。
- 7月11日:
一部の選挙人たちが、頻発する騒乱事件と無警察状態に対処するために、パリ市庁舎に集まり「民兵隊」の創設を決議。 - 7月12日:
ネッケル罷免のニュースがパリに伝わる。
選挙人たちはパリ市庁舎に集まり、13日早朝5時から各地区の選挙人で緊急集会を開くことを決議。 - 7月13日:
前夜から税取立所の焼き討ち等、騒乱が発生。
パレ・ロワイヤルでは、カミーユ・デムーランの呼びかけでその場に集っていた市民の機運が一層盛り上がる。 - 7月14日早朝:
数千~数万人の群衆がアンヴァリッド(廃兵院)に集結。
3万2000の銃と24門の大砲を入手。そのままバスチーユに向かう。 - 7月14日午前:
選挙人集会で決定した代表者がバスチーユ内のローネーの居室で、隣接するサン・タントワーヌ地区の大砲の撤去について話し合い。
この会談の間に、群衆の数は膨れ上がり、「代表者が人質に取られているのではないか?」という噂が飛び交い始める。 - 7月14日午前:
弁護士のチュリオが代表者としてバスチーユ内に入り、ローネーに降伏を提案するも拒否される。ローネーは攻撃されない限りはこちらも攻撃しないことを約束。 - 7月14日午後:
群衆の一部の男が出入口の跳ね橋の鎖を斧で破壊。槌で門を壊し、バスチーユ牢獄の要塞の内側に一気に群衆が牢獄内になだれ込む。 - 7月14日夕方:
バスチーユは群衆に制圧され、ローネーは殺害される。
バスチーユ牢獄の管理者であった、ローネー司令官の首はやりに刺されて群衆がパリ市内を行進した際に掲げられ、胴体はパリ市庁舎前に放置されたという。
バスチーユ襲撃が世間に与えた影響
バスチーユ襲撃は、先に述べた通り、それ自体に政治的な意味があったとは到底言えない出来事であったが、群衆が結束し、国王の権力の象徴である牢獄を陥落させた、ということは、民衆に希望を与えた。
飢餓や貧困に苦しむ民衆にとって、自分たちが力を合わせて立ち向かえば、世の中は変えることができるのだ、という印象をパリおよびフランス国内に与えることになったのだ。
なお、この出来事は、7月14日のうちにヴェルサイユのルイ16世に報告された。ルイ16世のこの日の日記には「何もなし」と書かれていた。これまで、このことが国王として危機感が欠如していて鈍感だと評価されてきたが、実のところ、この日記の「何もなし」という記述は、狩猟の成果が何もなかったという意味で、バスチーユ陥落の報告がルイ16世にされたのは日記が書かれた後の夜遅い時間もしくは翌朝であったとも言われている。