ジャコバン・クラブ
ジャコバン・クラブの起源
ジャコバン・クラブは、1789年の三部会の際にブルターニュ地方出身の議員たちが結成した「ブルトン・クラブ」が始まり。当時、三部会に参加した議員たちは、同じ地方出身者が集まって激論を交わし、政治結社を作ることが多く、「ブルトン・クラブ」もその一つであった。
同年の10月にあった「ヴェルサイユ行進」で、国王とともに憲法制定国民議会もヴェルサイユからパリに移った。「ブルトン・クラブ」もパリに移り、その際にジャコバン修道院を拠点としたことから「ジャコバン・クラブ」と呼ばれるようになった。正式名称は「憲法友の会」である。
地方への広がり
ジャコバン・クラブは、パリのみならず、フランス国内の各地方にも作られた。パリのジャコバン・クラブで作られた出版物は地方に送られ、また、活動内容の指示なども、パリから地方に伝達されていたという。
パリだけで約1,000人の会員がいたというから、地方の会員も合わせると、フランス革命期の最大の政治結社であったことがうかがえる。
クラブ内の派閥
結成当初は立憲君主制を主張
ジャコバン・クラブの中には、様々な派閥が存在し、フランス革命が進むにつれて、それらの派閥は分裂・脱退していった。結成当初は、立憲君主制を主張したミラボーやパルナーヴが中心的な人物であったが、この立憲君主制を主張する派閥は「フイヤン派」として1791年に離脱。
穏健な共和主義「ジロンド派」
その後、ジロンド県出身の議員が多くいた、穏健な共和主義者の集まりである「ジロンド派」が主導権を握ったが、革命が急進的な雰囲気になる中で、ジロンド派はジャコバン・クラブを離脱した。
急進的な共和主義「山岳派(ジャコバン派)」
ジロンド派の存在感が薄れる一方で勢いが増したのが「山岳派(モンターニュ派)」である。「山岳派」は、急進的な共和主義の議員の集まりで、王党派と反革命勢力に対して激しい敵対心を持っていた。ジャコバン・クラブに最終的に残ったこの「山岳派」が「ジャコバン派」と呼ばれている。恐怖政治の中心人物となるロベスピエールは「ジャコバン派」に属する。
ジャコバン派の終焉
ジャコバン派による恐怖政治がおこなわれるようになると、その中心人物であったロベスピエールに対して世の中の風当たりが強くなっていった。ロベスピエールの実質的な独裁に対して、「ロベスピエールが国王になろうとしているのではないか」という疑念の目が向けられるようになった。
そんな、反ロベスピエール派の勢力は、1794年にクーデータを実行。ロベスピエールとその同士たちをとらえ、失脚させた。このロベスピエールの失脚によって、ジャコバン・クラブは終焉を迎えることになった。