サン・キュロット – フランス革命を推進した市民

サン・キュロットとは「キュロットを履かない人」という意味で、フランス革命期における、労働者や職人、商人などの下層市民のことを指した。

サン・キュロットの由来

フランス革命当時、貴族を始めとした上流市民は「キュロット」と呼ばれる半ズボンを履くのが一般的であった。これに対して、労働者や職人、商人などの下層市民は長ズボンは履いていたため、貴族が蔑称の意味を込めて下層市民を「サン・キュロット」呼んでいた。

しかし、1789年7月にバスチーユ襲撃の主役となったのは、パリの下層市民、すなわち「サン・キュロット」であり、その後も彼らは国民議会や革命政府に対して大きな影響力をもった。革命中は、貴族を始めとした上流市民は、フランス国家を財政難に導き、庶民の生活を苦しめた悪の対象であり、市民たちは「サン・キュロット」であることに誇りを持つようになった。

サン・キュロットの服装

サン・キュロットの服装の特徴は、赤い丸帽子、短いジャケット、長ズボンである。とくに赤い丸帽子は愛国者の象徴として、市民の間でかぶる者が増えた。また、武装手段として長い槍を持つものが多かった。

サン・キュロット
出典:Wikimedia Commons

とくに、赤い帽子は「フリジア帽」といって、古代ローマにおいて奴隷から解放された者が被る帽子だったため、自由の象徴であったことから、女性の市民も赤い帽子を被っていた。

赤い帽子を被る女性のサン・キュロット
出典:Wikimedia Commons

1789年の人権宣言で人間の権利が平等であることが宣言されたり、1791年憲法で市民に参政権が認められても、下層市民は性別を問わず参政権を与えられない受動市民であったが、彼らは愛国者である象徴として男女を問わず赤い帽子に三色記章をつけた。

革命における役割

サン・キュロットが革命で果たそうとした目的は、自分たちの生活の困窮が改善されることであり、本当の自由と平等を獲得することであった。しかし、フランス革命前半における国民議会および立法議会は、ブルジョアジー中心のものだったため、下層市民の生活は改善しなかった。そのため、サン・キュロットはデモや暴動、蜂起を起こし、議会が革命を収束させようとすることに圧力をかけ続ける役割を担った。

1792年6月20日、サン・キュロットはついにチュイルリー宮殿に乱入し、国王ルイ16世に赤いフリジア帽を被せ2時間の間、示威行進するという行動にでた。さらに、同年8月10日にはパリの市民と地方から上京した連盟兵がチュイルリー宮殿を攻め、40日後に王権は停止したした。下層市民の行動が王権を廃止に追い込んだのだ。

王権廃止後、革命は世論、すなわち下層市民の声に押される形で急進左派のジャコバン派が中心となり、革命自体がどんどん急進化していった。自由と平等をつきつめて求めたことによって、国王や王党派の処刑が始まり、これが恐怖政治につながっていったのだ。しかし、下層市民の代表として王妃マリー・アントワネットの処刑に大きな役割を担ったエベールが、ジャコバン派の指導者ロベスピエールに粛清されると下層市民の存在感は弱まっていく。

下層市民の声の代弁者であったエベール派の処刑によって、革命政府における急進派勢力自体が弱体化した。これによって、テルミドールのクーデターでロベスピエールが処刑されることとなり、革命の中心的存在は再びブルジョアジーとなったのだ。