1791年憲法

1791年憲法

フランスの1791年憲法は、1791年9月3日に国民議会によって採択され、同年9月14日に国王ルイ16世に合意を得た、フランス最初の憲法である。この憲法によって、フランスは立憲君主主義国となった。憲法では、国王は不可侵の存在とされており、国民議会が採択した法律であっても国王が拒否権を行使することができた。

1791年憲法
1791年憲法の1ページ目
出典:Wikimedia Commons

1791年憲法の特徴

1791年憲法は、1789年の球戯場の誓い以降、国民議会が採択してきた法律を集約したものとなった。主な内容は以下の通り。

  • 国民主権を謳い、国王の権威は法に由来する
  • 封建制度の廃止
  • 国民を納税額によって「能動的市民」と「受動的市民」に分け、「能動的市民」にのみ参政権を認める
  • 参政権は男性のみ認める
  • 刑罰は人道的な観点から晒し刑や拷問などのむごい刑を廃止する
  • 裁判には陪審員を導入する
  • 言論・出版の自由
  • カトリック以外の宗教である新教徒やユダヤ教徒にも市民権を認める
  • 教会・修道院の土地を国有地として没収し民衆派これを買い取ることができる

国民主権や言論の自由など、現代の民主主義国の憲法につながる内容も含まれているが、納税額が一定額に満たない国民に参政権を与えないなど、完全に国民が平等になったというわけではなかった。

ブルジョア中心の憲法

1791年憲法は、当時国民議会で中心的派閥であったフイヤン派が主導して採択したものであった。フイヤン派の中心人物パルナーヴは、ヴァレンヌ逃亡事件が起こった際に「革命をこれ以上進めれば、私有地財産をも破壊することになるだろう」とブルジョア層の不安を煽って王政の存続を承認させており、憲法の内容もブルジョア層の立場を守るものになった。

その最たる例が、国民を「能動的市民」と「受動的市民」に分けたことである。これによって、実質的に政治に参加できたのは、必然的にブルジョア層ということになる。フイヤン派の革命家とブルジョア層にとっては、この憲法が制定されたことで革命は無事に完成したと思われたであろう。

憲法に合意したルイ16世

1791年9月14日、ルイ16世は国民議会から提示された憲法を受け入れ、国民に中世を誓った。この時、国王は国会に足を運び、議員たちの前で憲法と国民に忠誠を誓った。その時、国会には国王が通常座る玉座が用意されておらず、普通の肘掛け椅子に腰掛けた。チュイルリー宮殿に戻った後、ルイ16世はすすり泣いたと言われている。しかし、ルイ16世はこの憲法を受け入れたが、真意は異なった。

国民議会が発足して以来、ルイ16世の権限はどんどん狭まってきており、チュイルリー宮殿に移ってからは、国民衛兵に監視され、行動の制約を受けるような生活を送っていた。この状況は、ルイ16世を始め、王妃マリー・アントワネットも受け入れがたいものであった。しかし、ヴァレンヌ逃亡事件で国王の信頼は地に落ちてしまった。王政を復活させるために、いったん、憲法に合意することで革命派と民衆に対して、革命を支持する国王であるという印象を与え、時機を待とうという戦略だったのだ。