ナンシー事件

ナンシー事件

ナンシー事件とは、1790年8月31日にナンシーの駐屯部隊の兵士たちが反乱を起こし、メッツの司令官ブイエ将軍が兵士たちを厳罰に処した一連の事件のことを言う。反乱の首謀者として20名の兵士を処刑し、40人にガレー船漕ぎの苦役を命じた。ナンシーには、処刑された兵士のうちの1人、アントワーヌ=ジョゼフ=マルク・デジーユにちなんだ「デジーユ門」という凱旋門が作られた。

ナンシー事件
ナンシー事件
出典:Wikimedia Commons

フランス革命に及ぼした影響

ナンシーは、パリから東に約300キロ離れたところに位置する地方の都市である。ナンシー事件は、地方に駐屯するフランスの正規軍内の兵士と士官の間で勃発した紛争のようなものであったが、フランス革命に少なからず影響を及ぼした。

ナンシー事件で兵士を罰したブイエ将軍は、ラ・ファイエット将軍の従兄弟であった。ラ・ファイエット将軍は、ナンシー事件が起こる1ヶ月半前である1790年7月14日の全国連盟祭で華々しく観衆の前で宣誓の言葉を述べ、フランス国中から集まった観衆から大歓声を浴びた、いわば革命の英雄的な存在であった。しかし、ラ・ファイエット将軍は、兵士を処刑した従兄弟であるブイエ将軍を称賛したことにより、国民からバッシングを受け、革命の中心的ポジションから外れることになる。

ラ・ファイエット将軍
出典:Wikimedia Commons

医者でありジャーナリストであった民衆派のマラーは、自身が発行する新聞「人民の友」でラ・ファイエット将軍を反革命派であるとして批判した。

「偉大な将軍、両世界の英雄、自由の不滅の再建者が、反革命派の筆頭、祖国に対するあらゆる陰謀の中心であることを疑うことはできないだろうか」(「人民の友」より)

「両世界」というのは、民衆と宮廷のことを指している。これまでラ・ファイエット将軍は、貴族でありながら革命派として両者を橋渡しする英雄であるかのように思われていた。しかし、実は反革命派であり、民衆を騙して革命を潰そうと陰謀を図ろうとしているのではないか、ということだ。

それまで革命の中心的な存在にいたラ・ファイエット将軍は存在が薄まり、議会の中央左派である「立憲派」が代わりに革命を主導していくことになる。「立憲派」は、憲法と国会の優位を主張しながらも、国王の権限も一定残したままにしようとする、現実派である。「第三身分とは何か」の著者であるシエイエス、球戯場の誓いで誓いの言葉を述べたバイイ、また、三頭派と呼ばれる、グルノーブル出身のバルナーヴ、貴族出身のラメット兄弟、デュポールなどが「立憲派」の議員である。