全国連盟祭(パリ祭)
全国連盟祭とは、1790年7月14日にパリのシャン・ド・マルスで開催された「バスチーユ襲撃」から1周年を記念した祭典。フランス全土から約30万人の観衆が集まったと言われている。
1880年に7月14日を祝日とする法案が可決。以降、フランスでは正式名称では「Fête nationale française」(フランス国祭)と名付けられ、一般的には「Le Quatorze Juillet」(7月14日)と呼ばれている。日本では、ルネ・クレール監督のフランス映画「Le Quatorze Juillet」の放題が「パリ祭」だったことから「パリ祭」と呼ばれるが、これは日本固有の呼び方である。
全国連盟祭当日
フランスは1789年9月29日に当時の行政区分であった州が83の県に分けられた。全国連盟祭当日は、83の県から連盟兵が約3万人、観衆が約30万人集まったと言われており、会場となったシャン・ド・マルスには人が入り切らなかった。
前日は雨が降っていたが、連盟祭当日の午前7時には会場は身動きが取れないくらいの人で溢れていた。午後3時半頃、司教のタレイランが「祖国」と書かれた祭壇に上がり、ミサを唱えた。1,800人の楽士が伴奏し、400人の聖職者がミサの唱和をした。
ミサの後には祝砲が打たれ、パリ国民衛兵隊のラ・ファイエットが祭壇に登場。サーベルを抜いて宣誓をした。
「私は国民、法および国王に常に忠実であること、議会が制定し国王が承認する憲法を維持すること、人身及び財産の安全、王国内での穀物と食料品の自由な流通、友愛の決して解けぬ絆によって全フランス人に結ばれ続けることをここに誓う」
その後に連盟兵が「私は誓う!」と唱和が続いた後、ルイ16世が自責から祭壇の方に手を向けて国民と国法に忠実であることを誓った。
「フランス国王たる余は、憲法を維持し、法を施行させるために国家の基本法によって余に委任されるすべての権限を用いることを国民に誓う」
大観衆は、ルイ16世の後に「私は誓う!」と唱和した。
それまで、フランスでは州ごとの独立性が強く、人々はフランス国民というよりもどこの州の人間だという意識の方が強かったが、バスチーユ襲撃やヴェルサイユ行進を経るうちにフランス国民としての団結力が増していった。そんな雰囲気の流れで開催された全国連盟際は、国民と国法(憲法)と国王が一体になり、まさに自由をわかちあう祝賀的なムードに満ちあふれていた。その後に革命が急進化することや、国王ルイ16世が処刑されることなど誰も想像しえなかっただろう。